９４・それぞれのクリスマス〜ジュブナイル編
目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。
ミツルは中学三年生。受験生を毎月のように苦しめる模擬試験の日、遅刻が見事に決定した。たまたま両親は結婚式で、誰も起こしてくれなかったのだ。パンをかじりつつ学校まで走る。幸いと言うべきか、一時間めは自習になっている。
「ミツルくんは途中で病気のお婆さんを介抱していて遅刻したそうだ」と担任が下手な冗談を飛ばした。あいまいに受け流して試験に集中する。ゆうべは遅くまで勉強していたのだ。彼にはがんばる理由があった。希望している城南のボーダーラインは３５０点で、彼の平均よりちょっと上である。十二月上旬。そろそろ志願校を決めなければならない。
「クリスマスパーティーやらないか」
そんな声が聞こえてくる。仲がいいとも悪いとも言えない男の声だ。ミツルは生まれてこのかた誕生日は家族と過ごしており、友達どうしでパーティーなんて思いつきもしない。まあ関係ない話だ、不良のすることだよ、と思っていると気になる固有名詞が耳に飛び込んできた。「石原さんはどう」
石原ヨシノ。夏まではバスケットボール部員であり、１７０センチの長身が目を引く。彼女は前々から城南志望である。夏休みにいっしょに遊園地に行ったことは、二人の秘密である。
「んー。いいね」 素っ気ない口調でヨシノは言った。
その一分後。ミツルも、パーティーに交ぜてもらうことにした。
当日。
どんなことをするのだろう。女の子がいるなんて。煙草とかお酒とか。王様ゲームなんてしちゃうんだろうか。
ミツルはこれまで健全に生きてきた少年であった。女の子の手を握ったのはフォークダンスだけだし、行事以外で外泊したこともない。女の子の部屋に入ったこともないし、彼の部屋に入った女性は母親だけだ。そんな彼に、男女それぞれ四人はちょっと免疫がなさすぎた。
ズボンにプレスのかかったアイビーファッションで決めてきたのは、彼一人であった。みんなは普段着だった。
始まってみれば驚くようなことはなく、チキンとスナック菓子をコーラで流し込み、おしゃべりとゲームを楽しむ会であった。そしてささやかなプレゼント交換。しかしミツルにとってほんとうのプレゼントは、まだ鞄の中である。帰り道、ヨシノと二人になるはずだ。そのときにプレゼントを渡すつもりなのだ。二人で遊園地に行っても、ヨシノのミツルに対する態度は前と変わらないし、学校外で会うこともない。二人きりになれる今日なら。そうミツルは考えていた。
積もり始めた雪を踏む帰り道。大通りから外れ、予想どおり途中から二人きりになった。
前の日から練習していた台詞を、ミツルはようやくのどからしぼり出した。
「お願いがあるんだ」
「んん」
間。ヨシノはミツルの顔をまじまじと見つめてきた。見つめないでくれよ、照れて舌が動かないよ。じれてヨシノの眉がねじれる。無言の催促にたまりかねて彼は次の台詞を口にした。
「手を、握ってくれないか」
言っちゃった！ 頂上に登りきった気分がした。あとはご来光を拝むだけだ。
「いいよ」
ヨシノはそう言うと、手の平を上向きに胸の高さまで持ち上げ、ぎゅっと握り締めた。
ミツルはうろたえた。「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、両手？」 ヨシノは左手も同じように握った。
「……きれいな指だね」 ミツルはその場を自然にとりつくろうとして、そう言った。
「変な人」
変なのはきみの方だ、とはミツルには言えなかった。
ついにヨシノの家に着いた。
「きみに渡したいものがあるんだ」
「んー。なに」
ミツルは鞄から、イトーヨーカドーでラッピングしてもらった（赤面しながらレジに頼んだのだ）包みを出した。ヨシノが包装を開くと、白木の写真立てが顔をのぞかせた。
「あんまり、高いものは買えなかったけど。花とかぬいぐるみとかはきみに似合わないと思ったから」
余計なことを口にするのは彼の若さである。ヨシノはそれにはふれず、「ちょっと待ってて」と玄関に消えていった。庭先には彼が一人残された。一戸建ての庭には、家庭菜園とワゴン車とスタンド式のバスケットゴールがあった。
「お待たせ」
サンダルを履いてヨシノが現れた。「はい」と写真立てを突き出す。ガラスと板の間には、夏休みに二人で遊園地に行ったときの写真が納められていた。ミツルはうわあ、ええっなどとうめいてばかりで言葉にならない。上気した顔でようやく問いかける。
「これ、部屋に飾ってくれるの？」
「駄目」 ヨシノの答えは短い。
「や、あたしの部屋ってお母さんが入ってくるからさ。ふせても見つかるだろうし、机の一番上の引き出しに入れておくから」 申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
「ミツルくん」
「なに」
「ありがとう」
冬は夕方がなくてすぐ夜が来る。辺りはもう暗くなっている。ミツルは帰らなきゃとは思うがそのきっかけがつかめなかった。
「立っていてもなんだし、ちょっと座ろうか」
ヨシノは庭の角材を指さした。ミツルは言われた通りにした。
ニ十五秒ほど天使が通りすぎて、ミツルは必死で話題を探したが、それはいちじるしく雰囲気に欠けるものであった。
「実力テストの成績が帰ってきてさ」
「ん」
「３５２点。このままならさ、城南に行けそうだよ。そしたら――」
ヨシノは待った。ミツルが何を言いたいかなんとなくわかる気がしたが、なぜかその先を言うより言ってもらう方を選んだ。
「――高校もいっしょに通えるね」
「うん」
遠くから溶けた雪に濡れた路面を走り抜けるクルマの音が響く。家の中からはテレビの音が聞こえるが番組まではわからない。
ミツルは立ち上がるとバスケットボールを拾い、宣言した。
「これが入ったら、二人とも城南に合格」
「三本勝負にしておきなよ」とヨシノは笑った。
一投め。バックボードにさえ届かなかった。ヨシノも「クリスマスだけにクルシミマス」とつい茶目っ気を出してしまう。
二投め。リングにはじかれた。ヨシノの顔は「ちょっと待ってよ」という感じに引きつる。正しい投げ方はどうだとか、まず深呼吸しなさいよ、と言われるより早くミツルは最後の一投を放った。
ボールが再びリングに跳ね返され、落下するその前に。いつの間にか跳び上がっていたヨシノはリバウンドをそのままワンハンドダンクで沈めた。
「あ」とミツル。
「……サンダル、どっかへ行っちゃった」 暗がりに向けて目を細めるヨシノ。
今夜だけはここに、とベッドサイドに写真立てを置いて、ヨシノは眠りに就くのだった。