９１・サーヴィス
あなたはどうやって気分転換をしますか。
そう問われたときの答えはそれこそ千差万別であろう。長電話。ドライブ。手当たり次第に買い物。ホームページの更新。猫を紙袋（かんぶくろ）に押し込んでポンと蹴る。最後の例はどうかと思うが、目の前がぱあっと明るくなり世界が違って見える方法を私は知っている。
「眼鏡屋に行ってレンズを洗浄してもらう」
裸眼やコンタクトの人はどうするのだ、単にお前の眼鏡が汚れているだけだティッシュで拭け、などの非難はもっともであるが、掲示板荒らしウィルスメール投石などの攻撃はおよしください。それでなくても最近とある巨大掲示板群からリンクされていることが判明しておどおどしているので。小心者なのです私。
話を戻すと、もちろん営業スマイルを振りまく眼鏡屋のお姉ちゃんに「汚れたので洗ってください」と言えば笑顔が凍りつくことは必定なので、「つるが広がったようなのです」などと点検したついでに洗浄してもらっている。……改めて自分の行動を書き出してみるとあまりのせこさに愕然としてしまう。いや実際、眼鏡というものは着用しているうちにゆがみが生じるものなのだが。
洗ってもらった眼鏡をかけると、ほんとうに視界が明るく見える。カンデラがアップの別世界。一度ならず超音波洗浄機の自費購入を考えたほどである。しかもただ。それがうれしい。ただは人の心を動かす。余談だが、日本では何割引きという安売りが多いがイギリスでは何個買えば一個ただというやり方が多い。割引計算が面倒なのかもしれないが、ただという響きはうれしい。
しかも「たまたま」もう一つの眼鏡を持っているときなど、「これもお願いします」と頼んでしまう。……書けば書くほど小市民ぶりが際立ってくる。申し訳なくて何か買おうと思うが、精密ドライバーか曇り止め液ぐらいだ。どちらも間に合っている。あ、マニュアル通りなのだろうが出入り口での見送りはちょっと。あちらも内心どう思っているのやら。
「ゆっくり品物を選んでいただくため、店員は声をかけません」という販売店も好きなのだが、それこそまめまめしく働いてくれる業界もある。ガソリンスタンドである。ごみ、吸い殻、代わりの袋。消臭ビーズ。ふきんを貸してくれることもある。室内を拭けということらしい。従業員がガラスを外側から拭くのに合わせて内側から拭いたらどんな顔をするだろう、と悪戯心が首をもたげることもあるが、いまだ実行したことはない。
そんな私にクルマに関する知識はほとんどない。年式は忘れた。馬力やタイヤの空気圧は知らない。扁平率はどこの数字かわからない。そんな私が唯一欠かさないカー用品がある。
「ガラコウォッシャー液」（ラベルにはGLACOと書いているのでグラコと読んでしまう）
これを使うとフロントガラスの上で雨が細い川を作らす、水玉になって「ころころりん」と流れるのである。時速６０キロを越えると風圧で水玉は「ころころりん」とガラスを駆け上がっていくのである（高速道路でしか体験できないが、と書いておこう）。ちょっとした反重力体験であるころころりん。前がよく見えるよころころりん。その気になればノンワイパーも可能だころころりん。助手席には心から嫌がられるが。
先日スタンドに入ったときの話である。カードが使えるか尋ねたら、聞き返された。ちょっと不自然な口調で。見ればイヤホンをさしている。なるほど。無線やオーディオのコードは黒色だが、補聴器のそれは肌色なので区別がつく。彼女が窓を拭くのを内側から眺めながらぼんやり考える。この不況のご時世に聴覚障碍の人が就職できたというのは喜ばしいことであろう。確かにこの近くには聾学校がある。幼稚園のころときどきそういう子が来ていたが、交流学級というやつだろうか。もしかして彼女。まさか。
研修生の腕章をつけた若者が、点検を勧めてきた。夕方だったが時間があったのでボンネットを開けてやった。最近オイルも見ていないし、ベルトとバッテリーのチェックぐらいしてもらえれば充分だ。……その筋の友達は言う。「人に自分のクルマをさわられるのは嫌だ。空気圧なんてすぐできるし、オイル交換だって自分でする。ドレンプラグの抜き方にコツがある。何も考えないで抜くと垂れて手が汚れるので、もれる寸前までねじを緩めておいてひゅいっと手首を返して抜くのだ」そうだ。たぶん私は一生やりませんが。
特に異状はなく、その日は帰宅。
何日か過ぎて。残夏の熱気を秋雨前線が冷やし、人々が半袖をしまうころ。降り出した雨に、私はワイパーのスイッチを入れウォッシャー液をひり出す。
ちっともころころしない。むきになって何度も噴出させるが、やたらねばつくだけである。
……やられた。スタンドは普通の液を補充したのだ。ガラコは混ざると効果がないのでそもそも空にしてから使い始めるのだ。こういうこともあろうかと商品に付いてくる「混ぜないで」シールを補充口キャップに貼っていたのだが、研修生には通じなかったようだ。辺りは暗かったし。しかしこれでボトル一本が無駄だ。全部噴出させるのも面倒だし、もったいなく感じてしまう。
そんなところがやはり小市民。