７７・黄色魔術楽団啓蒙運動
ふだん音楽を聴く趣味のない私でも、ＹＭＯは好きだ。好きだと言っても語れるほど知っているわけではない。小学生のころライディーンに合わせて運動会のダンスを踊り、東京ドーム「再生」コンサートに行った、その程度だ。
それでも、無性に聴きたくなるときがある。確かアルバム『テクノデリック』があったと記憶していたが、それはテープだったというとんでもない記憶違いで、テープはすべて引っ越しの際に捨ててしまっていたのだ。ＣＤ屋に買いに行く。ＣＤの配列は基本的に五十音だ。WANDSや渡辺美里の近くに配列されることになっている。ところが。
ない。ないのだ。
ワイヨリカはあってもＹＭＯはないのだ。散開は１９８３年、もはや過去のものなのか。バイト店員だって知らないだろう。新たにプレスされることすらもはやないかもしれない。中古ショップに出てくるのを待つほかないのか。いや現在所有しているほどのコアなファンはそう易々（やすやす）と手放すことはないだろう。あきらめて店を出る前に未練がましくもう一度棚を一回りするとあっさり見つかった。しかも七・八枚も。
ところが場所が問題である。「ワ」でなくて「イ」のところにあるのだ。理由を考える。一つのジョークが思い出される。
「ＹＭＯを”イモ”と読む」
使い古されたジョークだ。しかし二〇〇一年現在の若年層店員が知るはずもない。発音に困って悩んだ挙げ句、天然で”イモ”と読むことにしたのではなかろうか。なんて短絡思考。これはぜひ指摘する必要がある。『テクノデリック』を手にレジへ向かう。
レジを担当していたのは、二十歳くらいの男性であるが、だらしなく肉をまとわりつかせた体、煩わしげになでつけられた髪、縦より横の方が長いのではないかというような顔、そこだけ浮いている流行りのレンズの小さな眼鏡、あまり好印象を与える容姿ではない。彼と論争するのはあまり絵にならないであろう。結局何も言えずに代価を支払い、彼に言っても仕方がないよな、と自分に理由をつけて帰宅する。
それから何度も『テクノデリック』を聴く。日が暮れるとラジカセ（コンポとかステレオとかいう文明の利器は我が家にはない）のボリュームを絞って聴いた。
翌日。今度は『ＢＧＭ』を聴きたくなった。昨日とは別の店へ向かう。近所に大型書籍店が開店したという話は聞いていたが、行ってみるのは初めてだ。
体育館のような天井の高い明るい店内。複数据えつけられた試聴用ヘッドホン。新築特有の木の香り。きれいなお手洗い。期待は高まる。
ない。ここにもない。またワンズとワイヨリカだ。ひょっとして、と「さ」の棚も見る。「坂本龍一」に吸収されてしまったのではないかと危惧したが、せいぜい坂本美雨である。そのまま視線を横に流すと。まただ。
「イ」の棚に、ＹＭＯ。だから「いも」ではないと言うに。まだわからないのか。
ここもか。『ＢＧＭ』発売から二十年、いまレジを担当している女の子は生まれてもいまい。しかし、しかしだ。いくら時が流れたとは言えＹＭＯを「いも」と発音する非道が世に許されていいわけがない。しかも二店めだ。やはり間違いは間違いとして断固糾弾すべきであろう。さて問題はいかなる台詞でクレームをつけるかだ。
「これ、”イ”の列にありましたよ」 駄目だ、これではどこがおかしいのか気付かない。
「”いも”ではないです」 ますますわからぬ。
「このバンドの名前は”ワイ・エム・オー”であって”ワ”から始まるのですが”イモ”と読むと思ったのでしょう”イ”の棚に並んでいましたよ」 こんな説明的な台詞を人間が言うか。
思考がまとまらない。とりあえず出たとこ勝負だ。なにしろこちらは冷やかしではなく会計を済ませようというのだ、立場は強まっている。ゆけゆけ。
カウンターをよく見れば、高校生らしき女の子の後に、大仁田厚に酷似した店長らしき男がいる。私の足は止まる。
躊躇その一。女の子にバンド名についての誤謬を訂正してあげていると、クレームと勘違いして大仁田がしゃしゃり出てくるかもしれない。躊躇その二。大仁田のような強面（こわもて）を避け、文句をつけやすい方に文句を言う軟弱男と思われる危険性がある。躊躇その三。この子が棚に並べたとは限らない。躊躇その四。ちょっとこの子、かわいいな。
長い髪をひっつめにして知的な雰囲気を出しつつも、十代の特権であるみずみずしい肌をしたおでこの下で、愛らしい無垢な眼差し（まなざし）をこちらに向けている。
いかん。
私は心の中で頭（かぶり）を振った。たかが高校生の小娘の色香に負けてどうする。ＹＭＯの正しい読み方を巷間に公布させなければいけないのだ。それには一軒一軒の草の根運動が必要なことは、わかっているはずだろう私。矢面に立つ彼女にはつらかろうが、がつんと言ってやらなければ。「あのう…これなんですけれど…」
私の説明を聞いた彼女は、「そうですか、すみません」と頭を下げた。私は「いえいえ」と返す。少しでも彼女の心理的負担を軽減できればよいが。私は善行を積んだ気持ちで店を出た。
その次の週末。彼女がいる方の店へ。ところが、ＹＭＯのアルバム群は相も変わらず「イ」の棚に並べられている。左側にプラスティック製の「イ」のラベル、右側には「イエローモンキー」なるバンドのアルバム。
「イエロー、モンキー？ イエロー！？」 やっとわかった。
Devoted for "Yellow Magic Orchestra".