６８・ニセコ慕情（下）

　六度ほどコールがむなしく響く。そのあと。「かちゃ」
「……もしもし」　知らない声。
「パトリックと言いますけれど、靖子さんいらっしゃいますか」
「え……まだ戻ってきていないですけれど」
「そうですか。部屋は間違えていないですよね」　返事を貰う。また、自分の部屋番号を告げる。
「では、また掛け直しますので。失礼します」

　三十分後。今度は誰も出ない。
　カラオケに行ったのだろうか。だとすると同室の二十歳の女の子もいっしょなのだろうか。だとすると、その話をしておいてなぜ私を呼んでくれなかったのだろうか。別の男に呼ばれたのだろうか。だとすると、こちらからカラオケルームに行って「なあんだ、ここにいたんだ」とおちゃらけるのは難しいだろう。だとすると、今夜、北海道最後の夜は何事もなく戻ってくるであろう三井さんと、ぷしゅっ、ビールで乾杯、ジ・エンド。きっとこうだ。
　だからって、何ができよう。彼女の部屋に行く？　相部屋なのに？　彼女を部屋に呼ぶ？　呼んでどうする？　何ができるのさ、パトリックまこと。お前に。

　……いつの間にか、寝てしまったようだ。十時過ぎ。世間ではこれをふて寝というのだろうか。のどが渇いている。二日間のスキーで鉄板入りのようになった腿をようやく前後させてドリンクの自販機まで歩く。ぴっ、ごとん。
「パトリック……さん」
「靖子さん？！」　ちょっと頬（ほほ）を上気させて、彼女は斜め後ろに立っていた。今はサングラスもゴーグルもかけていないから、不器用な二人の視線が直接ぶつかる。片方は寝ぼけて、もう片方はアルコールのせいで。

　どうやったのか、私は彼女を部屋に招き入れ、ガラナ・コーラの次に買い足したサッポロ・クラシックで乾杯。肴は雪印チーズと烏賊の軟骨、チョコレート。
「今日撮った写真、うまく撮れていたらいいね」
「うん。羊蹄山をバックに、だよ。格好いいよね」
「そう言えば以前、私が写真を頼まれたときなんだけどさ……」
　翌朝起きたら何もおぼえていないようなことを、戻ってきた三井さんを途中から交ぜて、存分に語り合う。彼女が部屋に戻ったのは二時近くになってからだ。私はタンブラーに残っていたビールを飲み干し、タオルケットにくるまる。



　翌朝。さすがに四日目、レストラン内で我々のツアーの人間を識別できるようになる。若い男性のグループといっしょに食事。今日の天気、体各所の痛み、スキー技術が話題に上る。昨夕の過ごし方も。一人の男が口を開く。
「そう言えば、知っていますか？　若い、そうだな、二十歳ぐらいの女の子に聞いたんだけれど、ほら、あそこの席に座っている女の人が、男に電話で呼ばれてなかなか帰ってこなかったんだって。帰ってきたのは真夜中の二時だそうだけれども、いったい何をやっていたのやら」
　周囲が笑う。爽やかな朝に似つかわしくない笑いだ。
「でもその男がこの中に必ずいるんだから、大胆というかよくやるというか」
　ここでみんな笑った。私も、笑った。笑うしかなかった。