６７・ニセコ慕情（上）
スキーは楽しい。
疲れた体をとろかしてくれる温泉や、気のおけない仲間たちとの宴会も楽しいのだが、やはり、思い通りのシュプールを描き、満足して一息ついて遠くを見下ろせば、眼下に広がる雄大な景色に包まれる、そんなえも言われぬ気持ちに一度でもなったらスキーの虜（とりこ）にきっとなる。地元秋田の田沢湖スキー場から瑠璃色の光をたたえた田沢湖の湖面を臨んだとき、北海道朝里川スキー場からパノラマで広がる石狩湾を眺めたとき、生きている実感が全身にあふれるはずだ。
そしてそれに、ニセコスキー場からまるで湯飲みを逆さまにしたように地面から盛り上がっている羊蹄山の迫力ある姿と向き合ったときを、付け加えてもいい。
そう、私は今ニセコに来ているのだ。
同行者の職場の先輩である三井さん以外は、今回のスキーツアーで知っている人はいない。だから今回はずっと三井さんと滑るだろう、そう思っていた。要領の悪い私が二度もホテルの部屋に忘れ物を取りに戻り、遅れてゲレンデに姿を現すと三井さんは女性二人とお喋りをしている。私が来るまでの時間つぶしだろう、そう思った。
「遅いよパトリックくん！」
「じゃあいっしょに行きましょう」と女性の声。
「よろしくお願いします」 ……三井さんは二児の父なのに。いつのまにこんな展開に。
クワッド（四人乗り）リフトで自己紹介。なんと二人とも私と同い年。
一人は初心者だが、ちょっと年上の奥菜恵のよう。
一人はそこそこ滑るが、光浦靖子を垂れ目にして地味にしたよう。
「北海道って雪の質がいいよね、雪をつかんで握ってもさ、さらさらしているから雪だまにならないんだよ」
「えーっ、ボードもやるんだあ、僕もだよ。それじゃさ、ジャンプしたりくるくる後ろ向いたりするの？」
「ボーゲンしかできない？ 嘘だあ、運動神経よさそうだよ。みんな『できなーい』とか言ってすいすい滑るんだよね。まるで学生がテストの前に『勉強してなーい』というのといっしょ」
などとトークで盛り上げようとする私。もちろん奥菜恵の方を向いて。
結局、奥菜恵は途中でリタイアし、午後は三井さんと光浦靖子と三人で滑ることになる。六時間滑ったあとは三井さんと二人でホテルを出てラーメンをいただき、さらに部屋でも飲む。出会った人々を肴（さかな）にして。
「あの綺麗な方、恵さんだっけ、もうすぐ結婚するらしいぞ」
こんな話ができるのも、基本的に部屋割りは二人一組になっているからだ。私は三井さんと同室、光浦靖子さんはまた別の女性と、といった具合だ。
「ほら、やたら若い三人組がいたでしょう。なんと二十歳なんだって。そのうちの一人と相部屋だから気を使っちゃってさ」と靖子さんは言っていた。
携帯に電話。秋田に残っている後輩の江藤くんからだ。
「パトリックさん、おこんばんはあ。いまどこですかあ。何回も電話したんですよお」
と莫迦に大きな声。かなり酔っているようだ。職場の仲間の家で飲み会を開いているとのこと。
「ギャルはどうですかギャルはあ？！ 今ごろ女の子連れ込んでよろしくやっているんじゃないすかあ？ パトリックさんももう三十でしょ」 まだ二十八だ。
「やっぱりね、スキーツアーに来たら、スキー！ 酒飲み！ そして出逢いですよ出逢い！ 出逢いがなくちゃねえ」 どうだというのだ。適当にあしらって通話オフ。
……出逢い、か。おやすみ。
しかし直前に入ったサウナで交感神経が刺激されすぎたのか、それ以外の理由か、なぜか目が覚めて眠れない。時計の「３：００」のデジタル表示を見た記憶がある。
バイキング朝食のトーストをかじりながら一日の行動を考える。三井さんが「今日はプールで泳ぐから俺は滑らん！」と宣言したから、一人で滑るなり相手を見繕うなりしなくてはならない。
見つからず。ホテルの玄関で靖子さんとすれ違う。スキーウェアを着ていない。
――今日は滑らないつもりなのかな。
どうにも声を掛けかね、一人でてれてれと滑ることにする。
一時間後。昨日からは見覚えのあるウェア。靖子さんだ。別の男性といっしょに滑っている。
「筋肉痛になっていない？」
「痛いよね、足」
会話未満。そのまま別れる。
さらに二時間。市価の倍額近いカツカレーの食券を握ってカフェテリアに並んでいると、肩をたたかれる。
「おっす」
「靖子さんか」
「なにその言い方」
「……いや、二人で滑っていたんじゃないの」と、男性の名を挙げる。
「事務局の人は半日交代でホテルで待機しないといけないんだって。どこを滑ったらいいかわからないじゃない」
「ゲレンデマップがあるだろう」
「まあね。でもいちいち開くのが面倒で。それより、なに食べるの？ カツカレー？ あ、大盛りでしょ」
「決めつけるなよ。……あ、同じ？ だったら俺、君の分も持っていってやるよ」
「お、優しい……ふりするんだ」
「見破られた？」 笑い声が重なる。
「じゃあ頼むね、私、水を用意するから」
その後夕方まで、靖子さんと私は二人でゲレンデを滑走する。彼女のパラレルはまだ足が揃いきらないけれど、急斜面でない限りずんずん滑る。私はポケットのキャンディを渡し、リフトに乗るときは搬機を押さえてやる。ペアリフトでは身を寄せ合い、寒さに震えながらお互いのことを語り合う。勤務地のこと、家族のこと、もちろんスキーのこと。偶然同じ秋田市の、隣りの地区の生まれであることが判明。会話は弾む。
「昨夕（ゆうべ）はどうしていたの」
「それそれ！」 奥菜恵と缶酎ハイを空けていたらしい。
「みんなどこにいるんだろうね、って話してた。部屋がわかれば、みんなでわいわいできるのにねって」
「そうだね……」
そのときはある言葉を飲み込んだ。だが、別れるときに、たまらず私は声を掛けた。
「あのさ、部屋番号教えてよ。僕は」と、自分の番号を告げた。
この一日でずいぶん見慣れた横顔は、少しためらったような表情になって、それでも、三桁の番号を教えてくれた。
「じゃあ夜になったら、ラーメンでも食べに行こうか」
「……それがねえ、カラオケに呼ばれてるらしいのよ。相談しないとなんとも言えないけれど」 奥菜恵の都合に合わせるというのだ。
「ああ、そうなんだ」 中立的な相槌を私は打った。
部屋に戻る。三井さんは大浴場に行ったとメモは語る。私は、一人ベッドで体を伸ばす。
北海道。ニセコ。スキーツアー。私の愛する北の大地。スキーヤーの天国。
恵さん、靖子さん、私。同い年の三人にとっては、今が最後の二十代の冬だ。もっとも私は早生まれなので次の冬の途中で三十になるが、今回その話はそれ以上発展することはない。
一期一会。アバンチュール。江藤の台詞。「出逢いですよ出逢い」
……私は跳ね起き、受話器を挙げ、靖子さんの部屋番号を丁寧に一つずつ押す。