４０・木戸に立ちかけ

　突然だが、今日はデートなのだ。いいのか。彼女とは同期入社だが、営業所が違うので滅多に顔を合わせることはない。年に何度か行われる研修が、唯一の出会いのチャンスである。
　研修は４時に終わった。そして５時に潮風の届くレストランの席を予約してあり、私の向かいのこの席に座ることになっているのだ。ナプキンとコースターは、すでに置かれている。

　何かあった方がよかったかな？　花、とか。気障（きざ）だよね。でもそれくらいの方が気持ちを伝えられるかもしれない。指輪？　莫迦、よせ。埒（らち）もない。単なる茶飲み友達のまま終わるかもしれないのに。……誰もいない席で、私はひたいを手で押さえ、かぶりを振る。
　腕時計に目をやる。そろそろ彼女が来てもいい頃だ。さて、来たら、なんて言おう？
「ごめん、待ちました？」
「そうでもないさ。いま来たところ」　だが灰皿には吸い殻の山。
　……うひゃあ。いや待て。これから食事しようというときに、煙草はまずいであろう。そもそも私は喫煙しないし。

　それから何を話すかだな。まずジャブだ。今日の研修がよかろう。共通話題だし。それから、ええと。諺（ことわざ）というか、語呂合わせというか、そういうのがあったな。ええと。水兵リーベ僕の船。違う。Oh BeAutiFul Girl Kiss Me Right Now. それは恒星のスペクトル。あ、思い出した。
「木戸に立ちかけせし衣食住」
　木戸だ。エクアドルの首都だ。それはキト。長州の桂小五郎は追っ手の目を欺くため木戸孝允に名を変え、明治の新政府創設と８５年のペナントレース優勝に貢献した阪神のキャッチャーなのだ。それも違うぞ。セリーグだけでなく日本一にもなっているし。
　ともかく、「さ」を入れて「立ちかけさせし」とも言うそうだ。彼女が来るまでシミュレーションしておこう。

「き」は気候。天気だ。「晴れてよかったね」「小春日和って英語でなんていうか知っている？　インディアンサマーっていうんだよ」　蘊蓄はやめよう。古谷ミツトシではあるまいし。
「ど」は道楽。いわゆる趣味だな。左手の人指し指と右手の小指を絡ませ、棒状のものを振り回すしぐさで「最近、こっちの方はどうです？」　いや、女性相手にゴルフ談義もまずかろう。そもそも道楽と言えばゴルフ、という単細胞の私の頭が心配だ。
「に」ニュースである。「図書券を賭けた麻雀は警察に捕まらないんだってね」「改名したのにどのマスコミも『ヲウム真理教（アしフに改称）』って元々の名前を使っているよね」　莫迦っ。
「た」は、旅。旅行そのものや名所旧跡、名物の品や食べ物だ。「僕、アイルランドで女の子と一夜を共にしたことがあるよ」　確かに一夜を共にしたが、睡魔に襲われながらディスコで蛸踊りをしただけではないか。
「ち」は知人。友達の話だな。ええと。「僕、友達、いないんです。今年の年賀状も二通しか来ませんでした」
「か」は家庭、家族のこと。「僕のアパートは１Ｋで、六畳一間なんだヨ！　かび臭いので『ドライペットおくだけ』がお気に入りさ、オキニ！　でも缶ビールはいつでもサンゴー缶が一箱常備してあるんだぜベイビー！　家族は９８メイトくんとスーファミくんとプレステくん、それとナビ子ちゃん！」
「け」は健康、健康法、景気。ははあなるほど、テレビの『あるある大事典』も健康をとりあげると視聴率が上がると言うし、『特命リサーチ２００Ｘ』も結局は人間の体のメカニズムだからな。脳がぐるぐるー。「最近運動不足でさあ。ほら。あとこないだ白髪を見つけてさ。こんなに長いの。あれってメラニン色素担当の器官だけが働かないで髪そのものはどんどん伸びるんだね」　いかんいかん、更年期を迎えた主婦の井戸端会議だってもっとましであろう。なぜだ。自分のことだから駄目なのではあるまいか。ここは相手のことを口の端に昇らすのが吉であろう。
「さ」は酒。特に飲酒時は有効であろう。「日本やアメリカ、アイルランドではWhiskeyって綴るけれど、スコッチの場合はWhiskyって e がないんだよ」　だから蘊蓄はよせと言うに。「アメリカはアイリッシュ移民が多いからどちらもWhiskeyなんだよ」　よせってば。次こそ相手のことを話題にするのだ。いいか。次だぞ。
「せ」は性交。「あなたはどんなポーズが好きですか」
　こんなのでは成功しないぞ。……最低。