３５・瞬間芸
どういう経緯でそうなったかは忘れてしまった。仕事の打ち上げで、先輩である久保田さんと五月原さん、同年代の杉田嬢と飲みに出たことは記憶している。当初は杉田嬢と私は先輩の手前遠慮し、久保田さんが五月原さんをからかっているという展開だった。確かに、久保田さんは五月原さんと仲がよく彼女によく軽口をきいており、五月原さんだって彼に容赦のない毒舌を浴びせている。私も配属になった当時、喧嘩中なのかと思ったほどだ。
「お疲れさま。今日まで大変だったね。杉田ちゃん、ほんとがんばったね」と五月原さん。杉田嬢はにこにこしながら水割りを作っている。
「今回の仕事だって、五月原、お前がもっとがんばれば楽になったのに」と久保田さん。
「何よお、『遅くまで大変だな』ってリポビタンＤを置いていったのは誰よ。そこまで言うなら手伝ったっていいじゃない。しかもたった一人一本」
「疲労回復には一番なんだよ」
「だってあたしはドリンク剤の似合わない女なのよ」
あまり似合う女性はいないが。鷲尾いさ子と鉄骨飲料ぐらいなものか。
「あんただって先輩らしいこと見せなさいよ」と五月原さんは久保田さんに指を突きつける。それは欧米ではマナー違反なのだが、二人はそういう仲だ。
「ようし。ちゃからちゃん」と久保田さんは自前ファンファーレを口ずさむと割り箸を頭上に置いて触角に擬し、
「蟻んこ」なる芸を見せてくれた。「次、サツキバラあ」
五月原さんは動じることもなく、割り箸を耳の位置に置いて言った。
「ちゃからちゃん。マジンガーＺ」
すかさず、久保田さん、返す。口元へ。
「ちゃからちゃん。ドラキュラ」
「ちゃからちゃん。新田瞬」 一本だけで八重歯を表現する。五月原さんはキャプ翼世代か。
杉田嬢はにこにこしている。彼女、思ったより大物かもしれない。「はいパトリックくん」と水割りをよこす。彼女が水と混合させ氷塊を投入した液体は、控えめな飲み屋の照明の中でも、透明度が低いように感じられる。
「……杉田さん」
「なあに？」
「これ、ちょっと濃すぎないか」
「そう？ 私、水割り飲まないからよくわからないんだ」 おいっ。
久保田さんは次なる獲物を目ざとく見つけたようで、栓抜きを目に当てて、「視力検査」なる芸を見せてくれた。
「そんなんじゃ駄目よ」と五月原さんは眉をひそめ、相棒をたしなめた。栓抜きをひったくるなり、
「ちゃからちゃん。視力検査。上。左。下。ええと、斜め。ってどっちやねん」
「う」 久保田さんは絶句した。「一人ボケ一人突っ込みとは」
腕を組んでしばし考えると、「エントリーナンバー三番。パトリック、行け」と私を指名くださった。普段は「くん」付けしてくれるのにな。杉田嬢の水割りが効いているのか、よほどネタに困ったのか。私は栓抜きを見つめると、それを横にして片目に当てた。
「ちゃからちゃん。ヨーロッパの貴族」
「おお、片眼鏡のことだな」と久保田さん。
「ちょっとわかりづらいわね。減点２」 五月原さんまで。しかし減点って何だ。とにもかくにもあまり好印象を得られなかったらしい。私は助けを求めるべく、杉田嬢を見た。
「ちゃからちゃん」と栓抜きを竹刀のように持つと、そのまま頭上で下を向け、見えない剣を呑み込まんと口を開いた。
「万国びっくりショー」
「わはは」「あはは」 そんなにおもしろいか。当の杉田嬢は相変わらず、にこにこしている。
「どうも赤組が有利のようね」と五月原さん。いつのまに男性陣対女性陣の団体戦になったのだ。
「ううむ」 また久保田さんは腕を組んだ。「じゃあ先輩チームと後輩チームな。はい決定」
久保田さんがおでんの鍋からに箸を突っ込み、それが戦闘開始の合図となった。
「ちくわの友！」
「サラダが載っているのはさらだ！」
「ほっけが獲れたのはほっけいどう！」
「しょうゆうこと言うな！」
「ソルトこれとは別問題だ！」
「洗濯機フライドチキン！」
「ラヴェルのポテト！」 ボレロ、というのはわかりづらいぞ。
「かにミッソン・インポシブル！」
「東海大豆腐！」
「キムチの気持ち！」
「漢字の焼き鳥十回！」
「七月七日はじゃがバタ！」
「初代モロキュー煮豆ダッシュ！」 複合技だな。セーリングダンス。
「シシャモおごり！」 大江健三郎か。死者の奢り。
「鶏カラしのつかないことを！」
「直角煮等辺三角形！」
「安くてこんなに美味しいの？ うん、エコノミー焼きって言うくらいだからね！」
「家出した息子の箸置き！」
「２ＬＤＫ風呂吹き大根駅五分！」
もう、どうだっていいではないか。どれが誰の発言でも、どちらのチームが勝ちでも。記憶に、ない。……杉田嬢、ゆうべ貴女が終盤に作ってくれた水割りは、一般に「ロック」と呼ばれています。それと、私は今、頭痛がひどい。