３３・ファクシミリ
あなたにとって、人間の尊厳を失った、と感じる瞬間は何だろうか。丁度しか入れていないのに缶飲料の自動販売機のお釣り出口を、いつもの習慣で思わずまさぐったところを同行していた友人に見られたところだろうか。電車に乗ったはいいものの退屈を持て余して網棚にあった『プレイコミック』を手にとったところを偶然乗り合わせた知り合いに見られたところだろうか。職場の仲間と飲み会に行ってへべれけになり、二次会のカラオケボックスでアニメメドレーを選曲し振り付きで歌い、替え歌まで披露したものの本人は記憶がなく、翌日同僚の女の子に「パトリックくんってアニメの主題歌なんて歌うんだね」などと憐憫の微笑みを浮かべながら事実を確認されているところだろうか。心当たりがある人は、反省されたい。私は三つ分反省した。
私の職場のファクシミリがまた人間としての尊厳を失わせてくれる物体なのである。それは、なんと言えばいいのか、カラーボックスに足を付けたようなキャスター付き書類ケースのてっぺんに鎮座している。さて電送したい文書を裏向きにして機器の上部から挿入し、電話番号を連打する。ここまでは普通なのであるが、さて紙が出てくる場所が問題なのである。低価格プリンタよろしく機器の前面から姿を現したそれは、別に紙受けトレイがあるわけでもないので、機器の前の空間にただ放出される。自宅の畳の上にあるならばそれでいいのだが、前述したように高層ビルのような書類ケースの屋上に置かれたファクシミリは、なんの遠慮もなくまるで「ぺっ」という声があったかのように紙を吐き出す。吐き出された紙片は滑らかに中空をすべり、１００センチメートルほど落下してリノリウムの床の上でその運動を停止する。停止したのを見計らって私は腰とひざを曲げて電送ずみの書類を拾うわけである。全く人間の尊厳はどこかに行っている。
一枚ならまだよい。四、五枚の連続であれば吐き出されては拾い、吐き出されては拾いをその枚数だけ繰り返すわけである。ひざをついているときに紙がつっと私の顔の付近を滑空した日には、もう拾うのはやめて寝込んでしまおうとすら思えてくる。
そんなファクシミリを使うように言われた。
「パトリックくん、トラベル観光の山手さんから連絡があったよ。旅行に行く人の氏名をファックスしてくれってさ。用紙が送られてきたから、名前を書きこめばいいようだね」
今回の社員研修で、私は幹事を務めることになっている。とはいえ下っ端、雑用係である。山手さんとは行き先、費用などの件で何度か打ち合わせを済ませている。私は後輩の篠原くんを呼んだ。
「篠原くん、今回の研修、誰が行くんだっけ」 決して全員が参加できるわけではないのだ。
「課長でしょ、係長でしょ」
私は「ボス」「スーさん」と鉛筆で書きこんだ。あだ名である。篠原くんも忙しそうなので、今はメモ書きをし、後でペンで清書しよう。
「渡辺さん、岩田さん、山下さん」
ナベさん、ガンちゃん、ヤマちゃん、と私は書いた。
「女性陣は、伊東さん、松崎さん、柴田さん」
みっちゃん、まりちゃん、ゆっこ。
「あとはどう言っていたかなあ」
ブーちゃん、と私は書いた。
「誰ですか」と篠原くん。
「わかるだろう」
「あ、そういう言い方をしていたんですね」
ブーちゃんこと高木くんはハンプティ・ダンプティ体型である。「君は言うなよ」
お局、と私は書いた。
「おきょく？」
「おつぼね、と読んで欲しいな」
「あっ、野呂さんですね！」
「声が大きい」
野呂さんは３５歳の独身女性である。
つまらない仕事はおもしろく演出する、という知恵を私は身につけていた。前に「わる」が付くかもしれないが。前頭部に毛髪の砂漠化現象が発生している人には「つる」。色白ぽっちゃりな女性には「餅」。篠原くんと私は興が乗ってきて、「馬」「ゴリラ」「サッチー」「丁稚」「ロボコップ」「失楽園」「デストラーデ」「幼児体系」「平安美人」「巨乳」など数々のニックネームを提案しあった。
「いいものがありますよ」と篠原くんが氏名ゴム印を持ってきた。こりゃいいや、ぽんぽん。ぽん。あっと言う間にできるね、ほら出来た、トラベル観光の電話番号はなんだっけ、ああそれかい、はいはい、ぴぽぱぱぽぴぷぴぽぺ。用紙はファクシミリに飲み込まれ、いつものように中空に吐き出された。
あ。鉛筆のメモ書き、消すの忘れた。
……後日会ったトラベル観光の営業主任、山手さんの押し殺した笑い顔を今でも忘れることが出来ない。