２９・白と赤
「スキーはスポーツと言えるのか。滑る、なんて言うが単に重力に引っ張られているだけではないか。電力を用いて高度の高い箇所に移動し、重力のままになるだけ。それを一体スポーツと呼べるのか」
……という意見はあるが、私はスキーが好きなのでこの意見を黙殺する。だって私はスキーが好きー。
私もいちおう秋田の生まれなので、南方の人間よりはスキーに親しんでいたと言うべきであろう。小学校のころ、冬になると体育の時間にスキーが採用される。だから１１月ともなればそりにスキーを積んで学校まで引き摺っていたものだ。だからその日の帰りは空になったそりにランドセルや友人を積んで滑走したものである。一番おもしろいのは車道をそりを引き摺ったまま全力疾走し、そのまま後方にあるべきそりに跳躍して搭乗し、そのまま滑走しサーフィン気分を味わうことである。ド・ダイＹＳに乗ったグフである。ひょっとしたらスノーボードの先祖かもしれない。はっはっは、今ゲレンデでシムスの板を抱えてスノーボードにうつつを抜かしているミーハーよ、思い知るがよい。私はクリンの板を抱えてスノーボードにうつつを抜かしている雑文書きであるが。
大学時代、サークルのスキー合宿に行った。私は高校三年間ある理由があってスキーをしておらず、まったく初心者レベルであったが、それでも秋田出身、過去の蓄積というものは怖い。どうやら上手い方のレベル、に入ってしまった。とは言えパラレルが出来るかどうかでまったく上手いなど土は口が裂けても言えない。私きれい？
で、いつの間にかスキー経験値が同じくらいの後輩と行動をともにすることになった。要するに自分より上手い奴にははぐれ、そうでない者を置いてきただけであるが。
「パトリックさあん」と彼女が呼ぶ。
「なんだい？」と私。ちょっと冬山では頼りになる先輩を演じねばならぬようだ。幸い一度来たことのある山だ、ゲレンデガイドとして伊能忠敬レベルの地理感覚を披瀝しなければならない。ええと、太陽が昇る方が東でそうでない方が西だな。ちなみにお箸をもつ方が右でお茶碗を持つ方が左だ。もう一つ言えば、野良犬がいたのがお土産屋さんで烏が屋根にとまっていたのが私たちの宿だ。
今やゲレンデもナンパの場と化している。ペアリフトばっかりだ。私たち二人の前にはカップルさんが着席して地上十数メートルからそのお互いの愛情を一般公開している。
「Ｙちゃん」 仮名で失礼する。パトリックのような男とペアリフトに座った過去がしれたら彼女の前途に傷がつくであろう。
私はストックをライフルよろしく前方に構え、
「ばきゅーん」
と口で発射音を鳴らした。もちろん前のカップルには聞こえないようにだ。小心者だから。
「あはははっ」
「民法１１７条により、ペアリフトでいちゃいちゃしているアベックは銃殺してよいことになっているのだ」
「きゃはははっ」
もちろん嘘である。ところで１１７条は強姦罪ではなかったか。よりによって。
「アベック一組で５０点ね」
「あはは」
「フィッシャーかサロモンの板だったらプラス２５点」
「あはは」
「女が男にあーんしていたらプラス１００点」
「私も撃ちますね、ばきゅーん」 お、ノリがよいではないか。
そのあとも彼女と私のマンツーマン・スキー・レッスンは続いた。マウス・ツー・マウスでないのが残念であるが。心から。
「ばきゅーん」
「ずだーん」
「ばばばーん」
リフトに乗るごとに私は一つ前に仲よく座っているアベックにバーチャルな銃口を向けた。そのおかげもあり私の軽妙なトークに彼女はすっかり打ち解けている。
また、ペアリフトに座るとき、座席が膝の裏をかっくんと打たないように手で抑えてやる。それくらいは雪国出身者の知恵として知っている。
もう数えるのも忘れるぐらい前のアベックを銃殺した後で、相変わらずとぼけた口調で私は話題を振った。ジャブを繰り出してみよう。実験パートワン。
「とかなんとか言って、僕たちも後から見たら、ずどーんとやられてたりしてねっ」
「あはっ」
顔は笑っているが、私の目はシリアスモードに入った。さあどうだ実験(1)の結果は。
「それはないよ」と彼女は言った。
……。まあいい。まだ時期尚早なのかもしれぬ。焦りは禁物である。次は私の自慢テクニックの「高速パラレル切り返し」を見せてやる。ウェーデルンに及ばないだけだが。
「じゃ、Ｙちゃん、後から着いてきて」
「はーい」
すー、すいっ。悪くない。体の切れも、ワックスの塗り加減も上々だ。おそらく鼻の下を伸ばしながら雪上を滑走していたのだろう。さて、そろそろ格好いいところを見せてやろうか。さあ高速パラレルだ。ずざっ、ずざっ、じゃっじゃっじゃっじゃっ。いい感じだ。
そして小ギャップをジャンピングターンで越えたとき、悲劇が起こった。
ぴょおん。ざっ。ぐきっ。ずっでえええええん。
しかし、転んだぐらいがなんだ。私のスキーは自己流、転んだとき如何にダメージを軽減するかはパトリック流スキーの第九条に書いてある。第八条はなんだっけ。頭を保護し、脚を交差させず、下手に手をつかないように（意外と手首を痛めるのです）すれば怪我はしない。ふふっ、大丈夫、体は強く打ったが大切な足はひねっていない。しかし、なぜか視力が異様に減退している。
「メガネ、メガネ！ Ｙちゃん、その辺にメガネ落ちていないか」
「はいパトリックさん」
私は彼女から眼鏡を受け取り、礼を言った。しかし、雪面に落ちたからか、私の荒れた息を受けたからか白くくもっている。彼女は心配そうな顔を見せている。
彼女を心配させてはいけない。私のダンディズムを見せてやろう。転んでも冗談の一つぐらい飛ばす余裕が欲しいところだし。
「眼鏡、曇っちゃった。ツキノヤエンキョー」
私は闊達に笑ってみせた。彼女は眉をひそめてみせた。
「莫迦言っていないで！ 鼻血でていますよ」
ダンディズム、もう台無し。