２５・愛蘭土物語（完結編）
……アイルランドはスライゴーの赤毛の少女、オレアンと知り合ったこの一日にも、夜はやってくる。頃は一月、しかも５０度を超える緯度の元では昼は短い。
「パトリック」 私を彼女が呼ぶ。「なんだい」
「モニカの家まで行きたいんだけど」とオレアン。
「だれだ、モニカって」
「マイ・ベスト・フレンドよ」
聞けばちょっと遠いところのようだ。日産サニーでまたドライブに出かける。
着いた。家に入ると、モニカのお父さんらしき人がいる。どこか悪いのか、松葉杖をついている。僕は右手を差し出す。
「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」
「私はエイズなんだ」 えっ。あの先天性免疫不全症候群のことか。握手では移らないとはいえ、僕は固まってしまう。
「イッツ・ア・ジョーク」
……そんなこてこてのジョークありかい。でも本当に足は悪いらしい。
モニカが現れた。オレアンよりはまともそうだ。でも、オレアンの方がかわいいな。３人で近くのパブで飲む。とは言え僕はオレンジジュースだ。頃はバブルの残照もほのかに残る１９９４年、アイルランドでアッシー君をしている青年は僕くらいなものかな、と思う。
「モニカにありがとうって言いなさいよ」とオレアン。モニカがおごってくれたようだ。
「……ああ、ありがとう」 オレアンは仕切るだけでなく、ずっとお喋りしていた。
「映画に行こうよ」 と、いうことで街へ繰り出す。どうやら彼女たちにはアシがなく、僕が自動車をもっているのが好都合のようだ。
日付変更線を越えたか、そろそろ眠くなってくる。「あっち」「こっち」 オレアンに言われるままにハンドルを切る僕。途中で、一人の女の子を拾う。鳶色の長い髪。はっとするような美人。月並みな表現だが、事実なのだ。
「彼女はシネイっていうの」とオレアンが紹介する。
「……よろしく」と僕。
オレアン、モニカ、シネイを乗せてクルマは走る。
「下手ね」 シネイに言われる。
「ごめん」と僕。いやなに、クルマを駐車場にバックで入れようとして壁にバンパーをごつんとぶつけてしまったのだ。反省。
４人で横に並んで映画を見る。旅行日記には、「火炎瓶を投げて逃亡する話」と書いてある。タイトルもおぼえていない。熟睡。疲れがたまっているのか。
「映画、どうだった？」 人なつこい笑顔を見せてオレアンが尋ねる。
「ああ、おもしろかったよ」 これを世間では社交辞令という。
「嘘、だってあなた寝ていたじゃない」 社交失敗。
でも本当に僕は眠かったのだ。立っていられないくらいに。
「ごめん、みんな、もう眠いんで帰っていいかな」
「駄目よ今夜は遊ぶのよ」
「次はディスコに行きたいの」 彼女たちの村落からはクルマなしではおいそれと来るところではない。アシを逃すわけにはいかないようだ。
「ね、パトリック、ディスコに行ったら１ポンドあげるわ」
１ポンドは１６０円である（当時）。何だそれ。
「眠くて運転も危険なんだ」
「ね、パトリック、お願い。お金あげるから」
「お金が問題じゃないんだ。お金が欲しいのではない」
「じゃああなたの持っているお金をちょうだい」
君は追い剥ぎか、オレアン。……結局、ディスコに行くことになった。
このとき僕は２１歳だったが、ディスコなんて行ったことがなかった。ソフトドリンクでごまかしつつ、ぼんやりした店内をうろつく。ロックがかかり、光が乱れ飛び、若い男女が踊る。これがディスコか。ぼーっ。文字どおり魂を奪われる。ひょっとしたら口を開けていたかもしれない。
オレアンにつかまる。「踊りなさいよ」
オレアンはディスコでなくても、昼日中、天下の往来でもうれしいことがあると踊っているような娘だ。水を得た魚のように踊っている。冬なので着ているジャンパーは野暮ったいが、踊りは、彼女らしくビビッドで軽やかだ。「ね、パトリック」
「えーい、ままよ」 僕は覚悟を決めて踊り出した。ところで、今どきそんな言葉を誰が使うか。
自慢ではないが踊りなんて知らない。そもそも踊りと言うところに問題がある。ダンスであろう。テレビで見たダンス甲子園を思い出しながら、素面で僕は踊った。たとえ、蛸踊りであっても。
今にして思えば彼女と手に手を取ってダンスしたら、とも思うのだが、当時の僕にそんな余裕などあるわけがない。
「楽しかったね」
「あ、ああ」
「じゃ、次は海に行こ」 もうどこへなりとも連れて行ってくれ。僕一人では帰れない。
いつの間にか、雨が降ってきている。が、小雨、多少体は濡れるが我慢できないほどではない。
「リッスン・トゥ・ザ・サウンド・オブ・ザ・ウェーブズ！」とオレアン。
「雨の中、海を見るなんてロマンティックじゃない？」
僕はうなずき、闇の中にわずか光る波頭を眺めていた。
「帰りは私が運転するわ」とシネイ。運転できるのか。
「オートマチックは初めてだけど……」
「僕が隣に乗って、危ないときはこれさ」と、サイドブレーキを引く素振りをする。一同、笑う。
シネイの運転は、言うほど危険ではなかった。こっちは。周りから見れば危険だ。
どうやら、ワイパーが上手く雨粒を拭ききれない。前がよく見えない。シネイは、「アイ・ライク・ブライター(brighter)」と言っていつもアップビームにする。そりゃ、こっちは明るくていいが、対向車にとっては目が眩んで迷惑ではないのか。ということを説明しようとしたが上手く伝わらない。僕は諦めた。対向車の皆様ごめんなさい。
ファストフードの店に入る。アブラケバブラという店名だ（これも日記による）。ケバブというアラブの辛い肉料理と、魔法の呪文アブラカダブラを掛けたものらしい。ハンバーガーやコーラを注文する。
「ヘーイ！」とオレアン。サービス用の氷をモニカにぶつける。モニカも氷を投げ返す。シネイもきゃっきゃっ言って氷をぶつける。僕にも。やはりそういうキャラか、オレアン。僕は黙ってポテトをつまんだ。君たち、ここは店内なのだぞ。彼女たちは、はしゃぐ。笑う。ヘアダイのことを話題にしている。そういう時期の、女の子たちなのだな。
店から出る。もう、夜よりも朝に近い時刻になっている。
「……パトリック」とオレアン。
「ん？」と僕。
「ね、ドゥ・ユー・ライク・ハグ？」（抱き締めるのって、好き？）
「え……」
「こうするのよ」 彼女は僕にしがみついた。つま先を伸ばして、その唇を僕の頬によせる。
「ねっ」 彼女は笑う。
僕は、自分から彼女の背中に腕を回し、絹のような彼女の綺麗な白い頬にそっと口付けをした。
……僕たちは別れ、オレアンを部屋まで送った。僕は窓から外を眺めやる。
東の方から、朝が夜を持ち上げてくる。スライゴーの夜明けだ。