１６・パピーラブ

　からからん、とドアベルが鳴るバーで。
「遅れてすみません、先輩」
「先にやらせてもらっていた。まず座れや、パトリック」
「まずビールください」
「冷たいのは大丈夫なのかい、最近、虫歯になったんだろう」
「ええ、たまにシクシク痛むんですよ」
　先輩と私は、高校のボート部以来の付き合いだ。今は違う職場だが、こうして月に一回、顔を合わせている。年齢は二つ違いなので部活で会う時間は短かったが、なぜか馬が合いいつも話は盛り上がった。今回も、四つ目のトム・コリンズを飲み干すころ思い出話に花が咲いた。
「おれ、中学のころもてたことがあるんですよ」
「ほうほう」
「もてたって言うか、一人だけなんだけど、学校に委員会ってあったでしょ。おれ、２年生のとき、その図書委員会に入っていたんですよ」
「本を貸し出したりするやつか」
「そう。そのときなぜかまわりのやつらが、タニガワミキって知っている？って聞くんですよ。それも一人でなくどいつもこいつも、男も女も。それでおれが、誰それ、芸能人？って聞き返すと顔を見合わせてわーっと声を立てるんですよ」
「うん」
「本当に知らないの？って、本当に知らないよ、なんて言ったらいきなり『かわいそう』って言われるし。で、よく考えたらほかのクラスの図書委員の女の子の名前なんですよ」
「確かにかわいそうだな」
「で、数日後、今度は、ある女の子が『ねえパトリックくん、ミキさんと、交換日記する？』って聞いてくるんですよ！」
「ぶわははは」
「笑いごとじゃないですよ」
「ぶわははは。こうかんにっき」
「でね、おれもその歳まで女の子と付き合ったことなかったし、第一、おれ、字が汚かったんですよ」
「今でも汚いがな。……わりい」
「ショックだったのと、それから『このへたくそな字なんて見せたら上手く行くものも上手く行かなくなる』と考えて、返事したんですよ。『交換日記なんてしないよ』と」
「ははあ。聞きようによっては冷たい返事だな」
「でしょう！？　ホント、おれ、不器用で……。今だったらもっと気のきいたこと、言えたのに。ああ、これが人生の岐路だったんですよ」
「で、それっきりか」
「そうなんです。しかもその翌年の文化祭で、タニガワさんはミスコンのグランプリになったんですよ」
「お笑いミスコンじゃないだろうな」
「違いますよ。当時は反ミスコン運動なんてありませんでしたから、真っ当なやつです」
「逃がした魚は大きい、な」
「で、大学時代、一回だけ年賀状を出したことがあったんです。二人とも大学が関東だったから。できれば、今一度お会いしたいなって」
「くわーっ、そりゃ未練がましいな、やめとけやめとけ」
「そうなんです。返事は来なかったんです。ほっとしたと言うか、残念なような」
「それでよかったんだよ」
「すみません、ギムレット一つ。で、先月近くの歯医者に行ったんですよ。そしたら、そこに」
「タニガワさんがいたのか？」
「そうなんです。幼稚園くらいの子どもを連れて」
「なんで彼女だってわかるんだよ」
「いや、あれは間違えようありません。絶対タニガワさんです。名字は変わっていたけれど」
「ふうむ」
「なぜ名字がわかったかというと、ほら、看護婦さんが患者の名前を呼ぶでしょう。坊やの名前を呼んだんですよ。イワタ……ちゃんって」
「……、ねえ」
「確かにそう聞こえたんです。おれの名前」
「だからってお前さんの、一瞬でも付き合ったわけでもないお前さんの名前をつけるかね。それこそパパの方がつけたのかもしれないし、祖父さん祖母さんがつけたのかも」
「そうですよね」
「偶然だよ、きっと」
「そうですね、きっと偶然ですよね」
「……おい、そろそろ、もう一件行くか」