１４・ランナーズ・ハイ
私は天使。名を、エンジ・エルという。羽が赤紫で鍵状にひん曲がっているところから付いた名だ。えんじ・Ｌ。今日は人間界に降りて、人間の心を覗いてみよう。
『町民マラソン大会』 なんだこれは。そんな長い距離を走るのか。クルマも自転車も買えない人間の集まりか。どれ、１０キロの部でも見てみるか。
「今日は寒いね」
「最後まで走れるかなあ」
「入賞するぞ」
人間どもの考えはそんなもんだな。
「……雑文のネタになるかなあ」
なんだこいつは。ちょっとこいつをマークしてみよう。
「前のお姉ちゃん、可愛いなあ」
「声も声優みたいだ」
「胸の形がいいな」
確かに１０月後半、Ｔシャツにショートパンツ姿の女性は少ないが。
ぱん。号砲だ。でも押し合い圧し合い、なかなか走るスピードにならない。
「前が詰まっている」 ふむ。
「歩いていこう」 ふむふむ。
「どこまで歩いていけるか勝負だ」
競技が違うぞ。
「沿道のおばちゃん」 なんだ？
「応援ありがとう！」 殊勝なところもあるんだな。
「お、あの子可愛いなあ」
そればっかりかい！ たったった。
「給水所だ」 お、サービスいいなこのマラソンは。
「エネルゲン飲みたい」
「もういっぱい飲みたいな」 飲み放題と違う！
「ごくん。ざばっ」 こぼしちゃって。やっぱり走りながら飲むのは難しいんだな。おいおい、無理してまた飲むなって。あらあら。胸いっぱいに黄色の染み、ついとるやんか！ だから水にしとけっての。
「コップを捨てよう」 そうだな。
「飲んだ後、道路にポイ捨てするといけないんだな」 今日はいいの！ たったった。
「このお姉ちゃんに遅れないようにしよう」
「ショートパンツは、南国のトロピカルフルーツを思わせる暖色系のグラデーションだ」 南国のトロピカルって当たり前や。
「このお尻を目印にしよう」 捕まるぞ。たったった。
「もう折り返している人が来た」
「ゆさゆさしている」
「ランナーは大きいとなれないからな」 うるさいよ。
「生理も止まるくらいだからな」 うるさいっての。たったった。
「頭がぼうっとしてきた」 おや？
「シアワセダ！ シアワセダ！」 トリップしまいやがった。
「これがランナーズ・ハイだな」 自覚しているのか！
「ＬＳＤっていう練習法があるくらいだから」 それはロング・スロー・ディスタンスというゆっくり走るやり方だろう。たったった。
「あ、さっきの声と胸の形のいいお姉さんが来るぞ」 彼女に遅れていたのか。
「ぱいぱいちゃ〜ん」 心の中で手を振るな！ たったった。
「あと１キロだ」
「沿道の観客が増えてきた」
「あの子可愛い」 またかいっ！
「ギャラリー、どんどん増える」
「さあ頑張ろう」 現金だな。
「ダッシュ！ ダッシュ！」 いるいる、最初と最後だけ頑張るやつ。
「一人くらい抜いて格好いいとこ見せたろ」 もう半数以上ゴールしているのに。
「やったあゴールだ」 ほう、この男、完走しやがった。わりと根性あるな。ぱちぱち。
「ドリンクくれドリンク。あと鶏肉スープお代わり」 乞食だよそれじゃ！
「お握りもう一つ」 昼食を浮かすなっ。
お、背伸びをしたぞ。
「あー、マラソンってすばらしい」
マラソンマラソンって言うけど、君が走ったのは４２．１９５キロじゃなくてたったの１０キロ！
「完走者から抽選で、ホノルルマラソンが当たるそうだな。当たればいいなあ」
１０キロでへなへなになって言うか。