１３・音の冒険
そろそろまた明日から始まる一週間を思い気が重くなる、日曜日の夕方。私はラジオのスイッチを入れる。
でんでんどんでーん。ちょうどＣＭが終わり、ジングルが鳴る。
「待坊家久美の、サウンド・アバンチュール。次はメールでのお便りです。ラジオネーム、Ｐさん大好きっ子さんです」
まだそんなネーミングセンスを持った人間がいたのか。
「クーミンさんこんにちは。私は二十三歳のＯＬです。今、私には好きな人がいます」
二十三歳のセンスじゃないぞ。
「私は、恋愛を知らないままこの歳まで来ました。小さいころから内気で、女子高、短大に通いました。短大での合コンも、男の人を前にすると口が動かなくなり、一次会で帰るのがパターンになってしまいました。そんな私が、突然恋に目覚めてしまったのです」
コーヒーでも飲むか。まずお湯を沸かそう。じゃーっ。ことん。ぼっ。めらめら。
「彼はアパートの隣の部屋に住んでいます。とは言っても、彼は私のことをおぼえていないでしょう。朝、すれ違うくらいです。彼が私の部屋を訪れたのも、一回しかありません。」
キッチンタイマー三分ね。ぴぴぴ。ぽん。
「彼はちょっと変な人で、変わった趣味を持っているのです」
変わっているから変なのであろうに。
「彼はビールが好きで、資源ごみの日にはビールの缶がそれこそ山のように出ます」
それくらいいいだろう。私も好きだし。しかしいきなりごみを観察する方が奇天烈ではないか。
「日曜日には家にいることが多く、ときどき歌を歌います。ＣＤにあわせて歌うこともあるのですが、RAYやMIDIなどコンピュータの楽曲ファイル・カッコ・私もコンピュータ関係の派遣社員なのでそういうのはわかるのです・カッコトジル・にあわせて歌うこともあります。夕方、歌番組がかかるとDA・PUMPやSPEEDにあわせて踊るときもあります。
彼ってそういう人なんだ。朝、挨拶するときの爽やかな表情。部屋で一人カラオケをする子どもっぽい姿。そんなギャップに、興味をおぼえました」
おぼえるなよ。ぴいぴいぴい。お湯が沸いたな。私は台所に行ってインスタントコーヒーをカップに作る。湯気をあごに当てて香りを楽しむ。
「もっと彼を知りたい。そんな気持ちで、私は彼の部屋を覗くようになりました。窓から覗き込むとき、私の胸はどきどきと高鳴ります。これが恋なのでしょうか。土曜日の午後は近所でハンバーガーを買ってきて、ささやかな宴会を開いています。たとえ一人でも、彼は目の高さまで缶ビールを捧げて、『乾杯』とつぶやきます。そのまま彼はテレビを見てゲームをしながら缶を四、五本空にして、枕を抱えて寝てしまいます」
単に、犯罪行為に対する罪の意識が原因で動悸がしているだけではないのか。コーヒーは残り半分になっている。
「ある日私は、彼の部屋の鍵が開いていることに気づきました。あたりに誰もいないことを確認すると、思い切って忍び込みました。これが彼の部屋なんだ。テーブルには、オーストラリア土産のコアラの柄のマグカップが置かれていました」
私はむせた。私の手にあるマグカップも、オーストラリア土産のコアラ柄だ。
「私は思い切って、コーヒーを飲んでみました。冷めていて、苦い味しかしませんでした」
私は思わず口を放した。
「そして運命の日がやってきたのです。ある晩、ノックがして、私がドアを半分開けると彼が顔を出しました。彼は酔っているようでした。アパートの鍵を会社に忘れてしまって入れない。これから友達のところに行くから電話でタクシーを呼んでくれないか、ということでした。あまりに唐突に訪れたチャンスに、私は思わずその通りにしてしまいました。うちに泊まっていったら、なんて言えませんでした。彼が言ってから、ああどうしてその一言が言えなかったんだろう、と悩んでしまいました」
そう言えば、そんなこともあったような気がする。結局タクシーを待ちきれずに公園の電話ボックスで寝てしまったことがあったっけ。
「だから、クーミンさん、私を応援してください。一言、励ましの言葉があれば私は勇気を出せるんです。あの人、パトリックさんのところへ」
がちゃん。コアラのカップは音を立てて砕けた。Ｐさんって私だったのか。Patrickさん。ちょっと待て、ビールを滝のように飲んでいることも「ホワイト・ラブ」にあわせて踊っていることも、鼻毛をバリカンで手入れしていることも露見してしまっているのか。いや最後のはまだ秘密か。
「お願いします、クーミンさん」
お願いされるな、クーミンさんっ。
「ピー・エス、アルバム買いました。すっごくいいですね」
やめてくれえええ。
「というお便りでしたが、……そうね、わかった。Ｐさん大好きっ子さん、夜中にあなたの部屋を訪れたのはきっと運命のいたずらだと思うよ。土曜日に一人で酒盛りしているくらいだし、きっと上手くいくんじゃないかな。ファイト」
ファイト……ですか。私はドアの方を見た。
「コンコン」 ノックの音がした。