妻スージーはかにが好きである。飼う方でなくて食べる方だ。いやなかなか飼う人は少ないけれど。
秋に結婚記念日があり、家族でちょっといい外食に行くのが恒例だったのだが、今年は娘ポーシャが東京の大学に行ってしまったので、スーパーのパック寿司を食べるくらいで収めた。
年末、ポーシャが帰ってくる。それに合わせてスージーは「かに屋を予約して」と注文してきた。そう来たか。
かにが嫌いなわけではない。水族館で見るのは好きだ。宴会で出されるのも好きだ。しかしかに屋に行って家族分の支払いをするのは、好き嫌いの問題でなくて、経済的に負担である。かに＝かね。
もう一つの困りごとは家族の時間感覚である。私は旅行でスケジュールを綿密に立ててワードで清書して印刷するのが好きなタイプ。ポーシャが小学生のころ『アナと雪の女王』を見に行ったが、スージーは「予告編をやっているよ」とのんびり。私は映画なら開演の十分前には席に座ってうす暗いなか雰囲気を味わうのが好きなのに。映画館について見れば予告編どころか映画は始まっていて、アナと裏切り王子が波止場で出会うところであった。だから王女姉妹の小さいころの話はよく知らない。
パンクチュアルな私と時間にルーズな妻の子供は、時間について妻側だった。
三十分下駄を履かせた時間を告げておく。
当日。三十分前、ポーシャはまだ自室にいる。まあすんなり行くとは思っていない。
出発しなければならない時間。ポーシャは鏡に向かって顔やら髪やらをいじくっている。
義母を乗せて出発。二十分は遅れる。かに屋に電話。どうして私が謝らなければならないのだ。昨年かに屋に行ったときも遅刻して電話をしたのだ。そんな歴史は繰り返さなくてよい。私の信用はブラックリスト。
立体駐車場へ。家族を下ろす。
「あれ、これ、なんですか」と義母。フロアに箱入りマスクが置いてあるのが気になるのだ。義母は毎回そうだ。下りる段になると「なにかありますよ」と言うのだ。マスクや小物入れが床に置かれていると落ちていると思うらしい。いやずっと足元にあったでしょう。それより安全に降りてほしい。今クルマは通路にあるのでほかのクルマの邪魔になっても嫌だ。
到着。メニューを見る。かに会席で一番安いの、と思ったら一番安いメニューは「和会席」となっている。よく見るとかにが含まれていない。かに屋に来てかに抜き会席を頼む人がいるのか。かにかまぼこが入っているのか（いません）。かに会席の中で最も安いコースで4,600円である。私はラーメンと餃子1,000円くらいで満足する。ファミリーレストランのレギュラーバーグディッシュ300g1,240円や濃厚ビーフシチューの包み焼きハンバーグ1,199円なんて御馳走だ。私とポーシャと義母は4,600円会席なのに、妻スージーは8,700円かに会席を注文した。美食倶楽部か。かに屋バッケンレコードをやすやすと超えていった。
「梅酒、飲んでいいかな」（528円）
注文を決めたはずのポーシャがメニューとにらめっこをしている。変な顔をしているわけではない。
「マリモ、欲しい」
いやらしい顔をしたキーホルダーではない。かに屋のホームページによると「もち米の中にかにの身とかにみそを入れて揚げ」あんかけにした料理だ。950円。かにマリモ一品でラーメン餃子セットに比肩する。
「ボタン係さん、押して」
ポーシャは無線呼出ボタンを喜んで押す。このへんは子供である。
「お決まりですか」と着物の女性店員。スージーがてきぱきと注文する。出立準備もそれくらいてきぱきしてほしい。スージーがこの店で働けばいいのに。
「お土産も欲しい」とスージー。「ポーシャも欲しいでしょ」「かに太巻を二つ」
かに太巻は一つ2,000円もする。そんなぱくぱくつまめば三分で食べる終わるようなものを。帰りにドーナツ屋にでも寄った方がいいよ。
注文を終えるとスージーとポーシャはお手洗いに行ってしまった。義母と二人だけ。義母が口を開く。
「ボーナスいっぱいもらったんでしょ」
「いやそんなに多くないです」
「だってテレビでボーナスが多いってやってたよ」
どうしてそんな話題を選んだのですか。
妻子が戻ってきて、料理が来る。かに料理を楽しむ。
かに豆腐、かにもずく。ズワイかに酢。寸分も無駄にはせむとて精神統一してかにスプーンで身をほじる。小骨をすする。
和風コロッケが運ばれてきた。ピンポン玉くらいのコロッケが、二つ並んでいる。
ぱっ。
スージーがコロッケの一つを強奪して、そのまま口に入れた。ジャイアンか。
「なにをする」
スージーは南米の吸血動物のようにコロッケの中身をすすると、コロモだけを私の更に戻した。
それが人間のすることか。チュパカブラ。
そう言えばスージーはそういうことをする人であった。以前にスーパーのパック寿司を買っていったら、ネタだけ食べてシャリを「あげる」と私に突き返してきたことが何回かあった。
憤然。小言を言って黙る。気持ちを切り替える。今日は結婚記念日と、ポーシャと義母の誕生日を祝う日なのだ。
ポーシャの写真を撮りたい。いつからかスマフォの待ち受け画面にポーシャの写真を設定している。仕事がつらいときでも、一瞬娘の顔を見れば、乗り越えられる気がするのだ。今年の夏はちょっと事情があって写真を撮らせてくれなかったが、おいしいかにを食べていい気分の今、笑顔を見せてくれることだろう。
ポーシャはスマフォで自分の顔を隠した。
なぜですか。
そんな高いかにを食べてその態度はないだろう、と言ったら負けのような気がしたので言わなかった。
義母が口を開く。
「パトリックさん、ボーナスいっぱいもらったんだって」
それは否定したし、その話題はやめましょうよ。
支払い。義母の分までクレジットカードで支払って、義母から代金をもらえればポイントが付くな。正直に打ち明けると、義母は賛成してくれたが、スージーが「そんなことどうでもいいよ。別会計にして」。
なぜあなたが言う。66ポイントの逸失利益。（6,600円を出すのを面倒に思ったらしい）
店を出る。義母は足がよくないので私につかまろうとする。それはいいのでつかまらせておくが、外出するといつもぱんぱんになった手提げを持ってくる。なにが入っているのか知らないが、今日もぱんぱん手提げを持ってきた。お年寄りが転んで寝たきりになった、という話はたまに聞く。なにかあったときに両手をあけていてほしい。
「今度からショルダーバッグにしてください。危ないから」
「だって荷物が入らないもの」
いやショルダーバッグに入る程度の荷物にしてくれ、という意図ですが。携帯電話もないし、財布と薬ぐらいしか必要ないでしょうに。
イタリア〜ンケーキ屋へ。「ポーシャちゃん おばあちゃん おたんじょうびおめでとう」のメッセージのチョコプレートを乗せたホールケーキを注文してあるのだ。
ポーシャが目ざとくお得コーナーでくるみパン150円を見つける。会計を済ませて出る。
「私もくるみパンが欲しい」とスージー。「買ってきて」
会計のときに一緒にいたでしょう。どうしてそのときに言わないの。
帰り道。道路の凹凸を踏んだり、加速したりするとスージーが怒る。
「荒い運転をすると『おたんじょうびおめでとう』の文字がゆがむ！」
ケーキを見ていないのでわかりませんが、文字はゆがまないでしょう。認知の歪みか。
高速道路のつなぎ目を踏み越えると、がたんと揺れる。
「がたんとしないで！」
それは無理だ。
ちょっと買い物に出て戻るとと、イタリア〜ンケーキはもう食べられていた。
