幼いころ気に入っていた遊びがあった。親が不在の目を盗んで階段に布団を敷き、そこを滑り落ちるのだ。ただ滑落するだけの遊びであるが、これが楽しい。さらに応用でマットレスの船を作り（ただ広げただけ）その上に乗って滑るとスピード感が増し楽しい。「二人乗り」「仰向け」などの技を編み出し、「うつ伏せ」に至ってはライト兄弟のフライヤー号のようであると悦に入っていたものだ。
特に怒られた記憶もない。何を破壊するでもなく撤収すると跡形もないので気付かれなかったのか、叱られたことを忘れるほどの阿呆であったか、どちらかであろう。
さて現在。家族三人でスケートに行ったときのことだ。娘はぐんぐん上達しちょっとやそっとでは転ばないようになり、私はフィギュアに感化されてバックの練習をし、妻は一生懸命壁の手すりを磨いて場内の美化に貢献している。手すりにつかまっているかベンチで休んでいるかどちらかである。
スケートを終え満足して帰路に着くと、妻が「ラーメン食べたい」と言う。前の週も外食をしたばかりなので断ると「コンビニで肉まんとメンチカツ」と固執する。それくらいなら、といつもと違うルートへクルマを走らせる。
コンビニ。私は特に買うものもないので用を足す。最近私は自宅のトイレを毎日掃除する習慣ができた。ブラシや洗剤を使うような大掛かりなものではない。用を足した後、正方形の大きさのペーペーで、あるときは便座を、あるときは配管を、あるときは床を拭くのだ。我ながらいい習慣である。トイレの神様とやらも味方してくれるかもしれない。排水レバーを引き、手に持っていたペーパーを捨てようと前かがみになったところ、
「ちゃぽん」
と何かが落ちた。
鍵だ。
私はカラビナで複数の鍵をくっつけている。クルマの鍵。家の鍵。小屋の鍵。自転車の鍵。クルマの静電気除去キーホルダー。ミニライト。これらが一蓮托生となって排水口へ吸い込まれた。
「うおおっ」
ブッチャーの地獄突きのように排水口へ右手を突っ込むが、排水口は小さくて手首すら通らない。水の流れは治まり、私は水没していた右手を引き揚げた。
大事な鍵をトイレに流しちゃった。
店員さんに相談。ボウルと火ばさみを持ってくる。トイレの中の構造はわかっている。この中でＳ字管と同じ働きをしているのだ。だからそんなもので取れっこない。
「本部に相談します」
私は用具と手袋を譲り受け、悪あがきをする。また、ほかの客が入ってきたら事情を説明しようと思っていたが、運良くそのあいだ客は来なかった。
「業者を呼ぶとなると、数万円の費用がかかるそうですが、見つかるとは限りません」と店員。「面倒な客だ」とは態度に出さず誠実な態度。若いのに大したものだ。
妻は「鍵を落としたら家の鍵を交換しなきゃ」とちょっとずれたことを言う。まず今の現状をなんとかしなくては。クルマも使えないし、家にも入れないのだ。
娘は『くれよんなんとか』の漫画を立ち読みしている。パニックになっていないだけありがたい。娘の小さな手なら、と手袋を渡そうとするも、それは流石に言えなかった。
決断。店員さんに「諦めます」と伝え、タクシーを呼んでもらう。「規則で電話を使わせられないので公衆電話をお使いください」と断られた。妻は「疲れて料理する元気もない」とかごいっぱいの食料を購入。
タクシーで妻の実家へ。妻の実家に家の鍵があるかもしれない。家の鍵がなかったら泊まるところもない。タクシーのメーターは無情に上がっていく。普段乗り慣れないだけに心が締め付けられる。タクシー内、会話は一切ない。運賃約7,000円也。
妻の実家へ。家のスペアキーはあった。家に入る。ねぐらを確保できてほっとする。さてクルマを取りに行かなくては（クルマのスペアキーはある）。妻に「クルマで送って」と頼むと「疲れて運転できない」「帰りは一人だ」「娘の世話が」と断られる。「駅までならいい」
駅へ。休日の車内は人もまばらである。私は普段電車を利用しない。乗るのは旅行ぐらいなものである。電車はハレの交通機関である。こんなに打ちひしがれた気持ちで電車に乗るのは初めてだ。
駅を降りて夜道をコンビニへ歩く。あとは道筋は見えた。お金でなんとかなる。コンビニ店員にお詫びとお礼を言う。その日は寝るしかない。
翌日。クルマ屋へ。鍵はリモコンキーである。見積もり約20,000円也（2週間近くかかる）。
ホームセンターで小屋の合鍵を作ってもらい、静電気キーホルダーを購入。
100円ショップでライトを購入。
とりあえず生活は日常に戻った。娘が疲労がたまったのかこのあと一週間近く学校を休んだ。妻はあれ以来スケートに行こうとしない。
そして自転車のチェーンロックはスペアキーもなく開けられないままでいる。金属切りバサミでは文字通り刃が立たなかった。
楽しいスケート遊びからの急転直下。教訓。大人になれば問題はとりあえずお金で解決する。
