個人的な昔話をしよう。それは結婚式当日のことだった。
青空の下を緊張感のある十一月の風が通り抜ける。私は着替えやゲストに差し上げるお土産をクルマに詰め込んで、彼女を待っている。まだ今は彼女であるが、これから神前で夫婦の契を交わすのだ。精神的な意味だ。
一般に女性の準備は遅いが、特に今日は遅い。彼女には30分早い時間を伝えていたが、その30分も使いきってしまいそうだ。
紫にも見える青色の（ラベンダー色というらしい）ステッピワゴンのエンジンをかけ、カー・ナビゲーションのスイッチを入れる。
「ぽーん。目的地を・セットしてください」 スティックを操作し、ボタンを押す。
「ぽーん。目的地まで・４０キロです」
僕のナビはもう十一年前のものなので、今となっては精度も悪いし、道路情報も古い。「距離優先」モードにすると市街地を迂回するバイパスより１００メートルごとに信号で止められる町中の雑踏へ突入していったり、「この先・しばらく道なりです」と日本海をモーゼのように一直線に横断していったりする。その頭の悪さもかわいらしく、今では会話が成り立つほどだ。
「ぽーん」
なんだい？
「次の交差点・左折です」
そしたら？
「そのあと・５キロメートル先・右折です」
オッケー。
……機械音声に合わせて喋っているだけでないかと指摘する人は、夢のない人と言わざるを得ない。
この段落、十二年前とほぼいっしょ。
十二年も使ったので機能はすべて使いこなしている。「緊急事態」というメニュー以外は。
出発。
「鍵を忘れた」
「あ、ここ汚れている」
（この出かけに台所の掃除だと）
「スリッパ忘れた」
「写真撮って」
（今日はカメラマンを頼んでいるのだから）
（手袋をはめるのはクルマの中でいいでしょ）
ずいぶんなタイムロス。
彼女の実家へ。お義父さんが出てくる。
「本日はよろしくお願い致します」（心の声：早く行こうぜ）
「ああパトリックさん、本日はよろしくお願い致しますうちの娘はなんでらかんでら（以下四百字省略）」
彼女がいない。
何をしているんだ。
「仏壇に挨拶してきたの」 そうですか。
お義母さん登場。
「ああパトリックさん、本日はよろしくお願い致しますうちの娘は（以下八百字省略）」
ようやく会場のホテルに向けて出発した。もう大丈夫であろう。今晩はスイートルーム「昇龍の間」に泊まり、明日にはイギリスに旅立つのだ。辰年あとを濁さず、なんて。
「あ」と彼女。
「仏壇の火、消してないかも」
えらいこっちゃ。
「消してきただろう」
「火事になったらどうしよう」
「誰かに見てもらえば？」
「鍵をかけてあるから…」
「クルマを戻してくれ！」
「この子は消し忘れるようなことはしません！」
「気になって式ができない！」
……はいユーターン。
「ぽーん。自宅に・誘導します」
もうホテルとの約束の時間には間に合わない。数々の失敗を軽々とこなしてきた私だが、さすがに婚礼ではちょっと、と素に返る。百人のゲストを前にして「遅れましてすみません」はあまりにドラマティックすぎる。「新郎新婦が到着していないので延期します」 そんなドラマはいらない。
なんとかしてくれ、ナビ子ちゃん。
「ぽーん。お困りの・ようですね」 ああそうだ。
「メニューから・『緊急事態』・コマンドを・選んでください」
ぴっ。
「ぽーん。エマージェンシー・モード・オン。第一フェーズ・アクセラレーション」
何が始まるんだ。
「四点式ベルトを・締めてください」
「スーパーチャージャー・始動」
ちょっと待て、これはステッピワゴンだ。
「ニトロ・インジェクション・開始」
ごーっ。
エフゼロか。
「ぽーん。前方に・暴走車発見」
珍走団だ。
「エマージェンシー・モード・オン。第二フェーズ・アーマメント」
武装って、そんなバナナ。
「ぽーん。交通マナーを守りましょう。ミサイル・アンチ・タンク用意」
「レーザー照準器・照射開始」
「HEAT弾・装填」
「Fire」
ちゅどーん。
「ぽーん。障害物・排除完了」
吹っ飛んだぞ。
「ぽーん。敵の・増援・接近」
いつの間に敵になったのだ。
「マルチプル・ローンチ・ロケット・システム・起動」
ＭＬＲＳか。いや突っ込んでいる場合ではない。
「ぽーん。交通マナーを守りましょう。」
ＭＬＲＳか。いや突っ込んでいる場合ではない。おいよせ。
「Fire」
メガヘックス攻撃か。
「斉射三連・ファイエル！」
なぜそこで銀英伝。だがファイエルは誤りだ。Feuerの読みはフォイアーなのだ。
「ぽーん。ルート・再検索中です」
ごまかすな。
「ぽーん」
次は何だ。
「次の交差点・右折です」
おどかすな。
「ぽーん。前方が・渋滞しています」
待て。それは撃っては駄目だ。補償が。
「ツーリスト確認。第三フェーズ。トランスフォーム」
「デルタウィング展開。ラムジェットエンジン・コンプレッション（圧縮）」
チキチキバンバンか。
「テイク・オフ！」
|||||
そして現在。
あちこちにガタがきたステッピワゴンを、手放すことにした。
最後の思い出に、洗車してワックスをかける。記念写真を撮る。STEPWGNのロゴが外れかかっている。引っ張るとそれは簡単に外れた。
そして前日の夜。手にはビール二缶。
一つをクルマの頭からかけてやる。
運転席に乗り込み、もう一つを口にする。
「ぽーん。ナビゲーションシステム・起動しました」 最後の起動だ。
スティックを操作する。
「目的地・消去しました」
日常の足だった。蔵王にスキーに行った。そして北海道に一人旅（前作）。引越しのたびに活躍した。何十人という人を乗せた。新潟のオフですてきな女性たちに出会った。花見オフ、箱根の邂逅。彼女とデートに東京に行った。そんな思い出の足跡が消える。
「マーク・消去しました」
「自宅・消去しました」
ついに君はすべての記憶を失ってしまったよ。
「ぽーん」
走行距離207,462キロメートル。
ありがとう、ナビ子ちゃん。
