１７９・タザイチ―田沢湖一周ツーリング
先日、仕事も少なかったので（いつも少ない）１時間の早退をした。お先に失礼します。
明日は出張。日も明るく、道もすいている。いい気分でハンドルを握る。
出張のお昼ごはんを買っていこう。おにぎりにサンドイッチ。おかずと味噌汁は持っていこう。完璧な計画。
買い物三点セットを持って出よう。買い物かごを除くと、財布と鍵とスマートフォン。
スマホがない。
会社に電話。
「机の上にあります」
明日が普通の勤務なら、スマホがなくても一晩くらい平気だ。しかし出張に行けばスマホを使わざるを得ない場面もあろう。買い物やガソリンが割引になる。ううむ。
泣きそうになって来た道を戻る。
労働者の権利として勝ち取ったせっかくの時間単位年休がパア。ガソリンも無駄に空にばらまいて環境を汚す。１時間１０分の無益ドライブ。
一往復半して帰宅すると、定時退勤時刻よりも遅くなっている。
みっともないを絵に描いたような日暮れだった。
それでも今年の夏は同じ時間をペダルを漕いで走ったのだ。日本で一番深く、一番透明な湖、田沢湖。円い湖は一周およそ20km。所要時間は１時間から１時間30分。手頃だな。とか偉そうに言ったが実はポタリングといって近所をぶらぶら走るばかりで10km以上走ったことはほとんどない。初めてのツーリング。
お盆前の晴れた日。クルマに自転車を積んで田沢湖を目指す。一般的には東側のJR田沢湖駅の方から接近するが、ナビは西側の旧西木村を通るルートを表示している。
今日のサイクリングコースはどうなるかな。有名なたつこ像がゴールで、そこで記念撮影ができれば最高だな。
トイレがない。
ローソンが二軒あったが、公共のトイレがどこかにあるだろう、と通過する。
田沢湖到着。トイレに行きたい。勘でハンドルを左に切る。
ホテル。駐車場はもちろん利用者だけ。
土産物屋。買い物をすれば無料だが駐車料金が200円かかる。道路脇にとめられたクルマが延々列をなしている。
あっけなくたつこ像に到着する。自転車に乗っているときに出会いたかったよ。
トイレ。きっとどこかにある。トイレ。
前は県外ナンバーのワゴン車。遅い、きっと家族連れで湖面を眺めながらのんびり走っているのだろう。
せっかくここまで来たのに粗相をしてサドルにまたがらずに帰るなんて。どけ前のワゴン車。
「御座石（ござのいし）神社」 駐車場がある。神様ありがとう。僕におトイレをくれて。
デイパックにペットボトル二本とタオル、ケータイ、スマホ（首にかけた）、財布を入れて走り出す。北側のあたりがスタートだ。ハンガーノック現象になると怖いので、来る間におにぎりを食べて炭水化物を補給してある。
松の木や銅像を撮影しながらぶらり自転車の旅。交通量はほとんどない。ときどきクルマやバイクとすれ違う。水面にはスタンドアップパドルで遊んでいる人たちも見える。
夏真っ盛りだが、自転車ツーリングは快適である。田沢湖をめぐる道路は左右に木が生えており、その枝が屋根になりサイクリストのために日陰を作ってくれているのだ。それは気のせいドリアード。
東側。湖水浴場（海水ではない）。ここから海まではクルマで１時間半かかる。内陸の人々のマリンスポーツゾーンはここなのだ。
コロナか不景気の影響か、撤退したホテルやレストランがちらほらある。
共栄パレスが閉店していた。
広い面積とレストランを誇る大きな土産物店。二頭の秋田犬にも会える。修学旅行の定番である。いや、あった。後日調べると今年の１月２日に事業を停止したとのこと。諸行無常。
この辺になると人通りが多い。観光客にぶつからぬように気をつけて走る。
サイクリストとすれ違う。珍しいので見つめていると
「ピース」
とピースサインを出してきた（声が聞こえたわけではない）。
なんだこれ！ 北海道ツーリングのライダーかよ！ 格好いい！
ほとんど人と会っていないので、これだけでどきどきしている。
ルートの半分。お尻が痛くなってきた。ふだん走り慣れていないのでそのへんの筋肉が悲鳴を上げているのであろう。田沢湖サイクリングコースは比較的平坦だが、この南東のほうはそれなりにアップダウンの激しい部分なのである。
「自転車道入口」の看板がある。一般道より湖に沿って走れるようだ。道幅は２、３メートルほど。いよいよ緑のトンネルを走っている気分だ。
「クマが出たらどうしよう」
走りやすく人通りも多い一般道と違い、こんな細い道でクマに出会ったら堪ったものではない。早くサイクリングロード終われ。
自転車道の終点にはクニマス未来館やたつこ茶屋があり、観光客がいた。人に会えてうれしい。未開のジャングルから帰還した気分だ。
たつこ像。愛車を停めるときは「地球ロック」といって地面に生えた車止めや樹木にワイヤーロックで固定したいのだが、あいにく丁度いいのがない。自転車を横倒しにしてたつこに会いに行く。そばの漢槎宮（かんさぐう、という小さな社）には行列ができていたので遠くから拝む。
「自転車が盗まれませんように、あいやもとい、無事に走れますように」
小走りで伝説の美少女たつこの写真を撮って戻る。
最初に見たホテルの近くに公共のトイレを発見する。勘でハンドルを左に切ったとき、右側にあったのだ。
西側。１時間前に尿意に耐えながらクルマを走らせていた道だ。湖の向こう側に人工的に林を刈り取った跡が見える。スキー場だ。少年時代や青年時代に通った、たざわ湖スキー場の上の方からは遠くに田沢湖が見えた。その逆を見ているのだ。
御座石神社。ゴール！ １時間16分。なにかを達成するなんて久しぶりだ。旅テンションで通りすがりの家族連れに記念写真を撮ってもらう。
遅い昼食を田沢湖ハーブガーデン「ハートハーブ」でとる。旅のもう一つの目的はここだ。この店は今月で閉まってしまう。温室がある。花が「50%割引」で売られている。閉店バーゲンだ。
壁にはラティスに自然物クラフトが飾られ、ハーブティーのドリンクバーがある。オルゴールが流れる。「バジル香る塩ラーメン」をいただく。でかいペッパーミルが渡される。これが流行りのペッパーミルか（２年前の３月です）。チャーシューを隠すようにバジルがかけられている。メンマが太い。汗を流した体に塩味がしみる。
お会計時にそばかすのお姉さんと会話する。
「今年で終わりなんですね」
「今月で終わりなんです」
「…おいしかったです、ありがとうございました」
ハーブガーデンを歩いてみる。ガーデンというわりには花はほとんどない。大学と市と共同で試験栽培がされているはずのルバーブの畑は、ただの草地になって久しいようだ。通行禁止のテープもある。ペリウィンクルという赤紫色の花だけが、がんばって咲いている。
「皇太子殿下御来園記念植樹」のブナの木は、どうなってしまうのだろう。
ペリウィンクルはツルニチニチソウとも呼ばれ、その花言葉は「優しき思い出」「追憶」である。